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2月5日付のブログで予想したとおり、京都の高層マンションの価格が上昇している。産経新聞夕刊(8月8日)にも同様の記事が掲載されていたのだが、京都の景観には大きな問題なので全文を引用しておこう。
京都市、景観条例を逆手に のっぽマンション価格高騰(iza)
京都市で、眺望を売りにした「のっぽマンション」の価格が高騰している。建築物の高さなどを規制する新景観政策が9月にスタートするため、新たな高層物件が建てられなくなる地域が増えるからだ。現行基準で建築確認を「駆け込み取得」した新築マンションでは、上層階の価格が下層階の2倍にのぼり、「今だから提供できるプレミアム物件」を最大限にアピール。この影響で中古物件も値上がりしているという。新景観政策を逆手にとったビジネスに、市は「違反ではないが…」と困惑している。
それにしても、上層階の坪単価が下層階の2倍にもなっているとは驚きである。いくら高いところが好きなお馬鹿さんが多くとも、4〜5階程度の差では、京都の夜景に大差がないことがわからないだろうか。方角によっては、大文字の送り火が見えないことだってありえる。おそらく、カネ余りしている東京や海外の資本が、プレミアムと言う言葉に踊らされて買いあさっているのだろう。 だがこのようなことが続けば、地価の異常な高騰を招き、京都の町にも悪影響が出てくる。コミュニティーが破壊され、景観が破壊され、経済が破壊される。市は「価格設定はマーケットの問題で、市が指導できるわけではなく、コメントしようがない」などと無責任な態度のようだが、とんでもない。僕ですら、新景観条例が発表されたときに、このような事態を予想できたのであるから、もしも条例策定時に予想し、対応について考えていなかったとすれば、行政の大きな怠慢であると批判されても仕方がなかろう。京都市長の責任も重大である。 資本の論理で動いている輩に対して、文化への理解をいくら語っても仕方のないことは、バブルの時代に十分学んだはずである。資本には金で対抗するしかない。おそらく不動産の高騰に対して京都市が対抗できる唯一の政策は、固定資産税の購買価格での課税である。付加価値のインフレーションが都市景観政策のネックとなる訳であるから、土地・建物だけでなく、当然その部分にも課税すべきだ。高層住居を購入できるお金持ちには、きちんと税金を払ってもらいましょうよ、というお話である。 |
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「なぜ無責任な建築と都市をつくる社会が続くのか」という本を読んだ。著者の中崎隆司氏は生活環境プロデューサー・建築ジャーナリストということである。生活環境プロデューサーっていう仕事をよくは知らないが、プロダクトからまちづくりまでの調査・企画・設計をすることだそうだ。モノ・カネ・ヒトをつなげる情報産業といったところなのだろう。
著者は商品開発から町おこしまで様々な企画に携わってきた経験があるようで、語られる内容の一つ一つはとても具体的である。それゆえに、問題点の指摘にも説得力がある。例えば、昨今の狭小住宅ブームについてはこのように苦言を呈している。 狭小住宅にも限度があると思うが、現在の限度のひとつは九坪ということのようだ。九坪とは畳十八枚、約三十平米だ。超ミニ開発が行われているということなのだ。一般的にはミニ開発は建売業者が行うのだが、超ミニ開発には建築課と称している人たちが協力している。むしろメディアを通して狭小住宅の需要を煽っている。狭小住宅は住宅取得の機会を広げるという意見があるが、それは個の欲望だけを優先する考え方だ。狭小住宅は生活環境の悪化につながる密集市街地を新しくつくることになる。 (前掲著 <狭小住宅に建築家の未来はない> p25) 確かに、我々のような設計事務所に住宅を依頼するクライアントの中には、ハウスメーカーが建設できなうような敷地を購入した人も多い。これだけの資金で何とかしてくださいという話である。せめて土地購入前に相談してもらえれば、地域・土地・住宅を総合的に計画できるのにと思うのだが、一般の人はそのようには考えない。まず、環境のいい地域に住みたい!(芦屋、西宮・・・とか)でも、融資金額の総額は決まっているから、広い土地は買えない。さらにアプローチも悪い。でも、ここしかない。で、最後に、こんな生活がしたいから、これこれの部屋を作ってください。お願いします、ってことになる。建築費用は最後に残った分しかないのに、要望は天井知らずに高い。 こんな状況で、待ってましたとばかりに、雑誌に載っているようなイメージのワンルームタイプの住宅を提案すると、クライアントもコロッと納得。何しろ、コストカットのためにチープにならざるをえない空間を、メディアが格好いいといってくれているのだから。 建築家は個人と社会のバランスを考えられる人たちであり、個人の夢や希望を社会の夢や希望として表現できることができる人たちである。ところが、個人の夢や希望が社会の夢や希望につながっていかないことから、建築家本来の役割を演じることができないでいる。日本の社会に建築家に託す夢や希望がなくなっているのだ。だから、建築家の選び方も評価されたブランドを購買するのと同じようになっている。社会が夢や希望を持ち、その実現を託さないと、すぐれた建築家は育ってこないし、美しい国をつくることもできない。(前掲著 <夢を託されなくなった建築> p37) すべての建築家が慧眼の士であるとは言い切れないが、そうあるべきだと日々格闘していることは事実である。しかし個人の権利意識が増大している昨今では、建築において町並みや地域性といった公共精神を語ることは、時代遅れのように考えられているかも知れない。建築家の中にも、思考の表現だけが建築で最重要だと錯覚している者も多い気がする。
著者が問題としているのも、まさにその点である。地域を活性化するためのコンサルタントとしてアイデアを求められながら、なぜ物事がうまく進まないのか? では、デザインコーディネーターに頼ればよいかというとそうではない。よそ者頼みの安易な町おこしは、日本全国で同じような画一的なものになる危険がある。 地域ブランドづくりに大きな予算をかける必要はない。又デザインコーディネーターも必要ない。彼らが連れてくるデザイナーと組んでも成功することはない。地域で生活するデザイナーを育て、ゆるやかな人と人のつながりのなかから無理をしないでもできることをやればいいと思う。そのような機会と場所は無数にある。(前掲著 <銀座ショールームが東京都地方をむすぶ> p155) 大学で建築や都市環境を学んだ学生は、毎年1000人以上社会に出ている。にもかかわらず、建築設計業界はますます自閉的なデザイン論に向かっている。ジャーナリズムの責任も大きいが、日本の公教育が機能していないのが最大の問題である。こういう時代だからこそ、コミュニティー・アーキテクトといわれる、自らの地域に関わりながら住民を支援する建築家が、今後ますます必要になろう。デザインを社会的な文脈で活用するようなフィールドで、我々も働きたいと思っている。建築家と地域活性化についての関係について、中崎氏に同意する部分は多い。ただ、一箇所だけ矛盾を感じるところがあった。それは、注目されている建築家を使えと書いてあるところだ。上記の地域のデザイナーを育てよとの提言と、全く逆じゃなかろうか。 最新のデザインは建築雑誌の取材が期待でき、情報誌、女性誌の取材につながっていく。マスコミを活用することで集客力を高めることができる。(前掲著 <客数を増やすことが観光地の活性化の決め手になる> p175) マスコミを利用するのは大いに結構である。しかし、すでに有名になった建築家のネームヴァリューを使うというのは、公共団体が実績重視で組織事務所を選ぶのと根は同じである。公開コンペを行うなどして、地域に夢をもたらしてくれる案を住民が選べる方法が最善ではなかろうか。当然建築家も、斬新な提案ができる能力をつけなければならないのは言うまでもない。 |