2005年03月10日

金沢21世紀美術館で考える


エンターテインメントと芸術は違う。エンターテインメントがただ受動的に楽しみを消費できるのに対して、芸術とは世間の通俗性を否定することにより、常識で曇った目を見開かせてくれるモノである。したがって、その否定性を理解しようとする、また理解できる知性が芸術理解には必要だ。とはいうものの、創作された作品はそのどちらの要素も持っている。そう簡単にどちらかに分類することは難しい。

そんなことを、最近「金沢21世紀美術館」を訪れた折に、来館者の様子を見て色々考えされられた。2004年10月にオープンしたこの美術館には、いろんな仕掛けのある現代美術作品が多く、小中学生が総合学習の時間にやってくるには最適のスポットだろう。また、美術館のボランティアスタッフが色々と説明してくれるので、親しみやすい雰囲気だ。だがそれは、どこかディズニーランド的であり、これからの美術館の新しい方向だと言われたらちょっと首を傾げたくなる。現代芸術を楽しく感じ取ることも大切だが、そこに至る絵画の歴史などはきちんと子供に教えられているのだろうか?

10年以上も前のことだが、フィレンツェのウフィツィ美術館での光景を思い出す。有名なボッティチェルリの2枚の絵の前で、子供達十数人が座って先生の説明を受けている。だいたい、こんな時代を画するほどの名画が無造作に展示されていることにも驚いたが、日本だったら人だかりでじっくりと説明を聞きながら絵を見る事などとても不可能だ。イタリアの文化資産のすごさに打ちのめされながら、さらに子供達にきちんと自国の文化を教えていることに感心した。現代芸術が歴史の中に位置づけられてこそ、その意味のアイロニカルで知性的な側面が理解されるのに、楽しみだけかのように思われて消費文化のひとつとして子供の心に位置づけられるようなことになれば、それは明らかにミスリードである。

京都での建築系学生卒業制作展での討論会で、ある学生が、金沢21世紀美術館で野良仕事帰りのような老夫婦が歩いているのに出会い、今までの美術館で見た光景との違いを感じて、新しい美術館の試みは成功しているのではないか、というような発言をしていた。ちょっと待ってほしい。バブルの頃のばらまき行政で、どれほどの美術館や市民ホールが田園風景の中に突如として現れたことか。田んぼののど真ん中に美術館があって、人々が通り過ぎていっても、それを成功などとは呼ばないだろう。もしそれら箱物で、人々が新しい感動に出会って来たのなら、我々日本人はとうに世界一の文化度を誇る国民になっていなければおかしい。だが未だに日本の市民文化は消費文化でしかない。

建築としてこの美術館をどの様に評価できるのか?という質問に答えるのは難しい。当然バブルの頃とは違ったミニマルなデザインなのだが、それが「何かが起こることを期待するプログラム」の結果であるというなら、あまりにもそれは無責任な考え方だろう。この美術館では、現代美術の様々な作品に対応するために空間は限りなく空虚に作られている。ガラスの外壁や白に統一された展示室ブロックも、建築のリアリティーを喪失させるべく意図されている。作品と人間の相互活動を見せると言うことは、コンセプチュアルな現代美術によくあるレトリックであるが、その点この美術館は申し分なくそれを実現している。だが、トム・ウルフの「現代美術コテンパン」(1984)が書かれて20年も経った現在、開館記念展示に参加している何人の作家が、自らの存在意義を人々に認めさせることができるのか?
開かれた美術館という意図に反して、作家にも市民にも厳しい知性を要求しなければ存在意義が無くなるという現代芸術の袋小路を、この美術館は図らずも建築として表現してしまったように思うのである。


投稿者 kitazawa : 2005年03月10日 00:15 | トラックバック
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