2003年12月09日

いまどきの住宅




いまどきの住宅について                             12-7.7

日本の住宅事情について「うさぎ小屋」と揶揄され どれくらいの日がたったのだろうか 洋の東西を問わず 一般庶民 あるいは市民と呼ばれるひとびとの住まいの品質 規模自体は いまもむかしもそう大して変わっていないように思える 大きく変わったのは工法や材料といった技術面そして社会的構造や経済的構造である しかしながら天変地異のもたらす被害状況等をみていると 住宅が それらの恩恵を充分に受けているとは到底思えないのである 世紀の変わり目にある現在 建築を取り巻く状況は非常に複雑化している 否 混迷化へ驀進している 東京都庁や商業建築に代表される巨大建築とプレハブや建売り住宅に代表される極小住宅 そこに垣間みられるものは 「空間の商品化」による「精神の霧消化と退廃化」である このことはなにを意味しているのだろうか 
住宅に限ってみれば かつての住宅に求められていた「〜に対する期待」という名の願望は 経済的不安要素に裏打ちされた「核家族化や小子化」 そして社会環境の「変容」により 社会の構成基盤としての構成要件にならなくなっている 家族の形態が変わり居住形態も大きく変わっているにもかかわらず「住宅」の似非品質を示す「nLDK」といった空間構成は十年一日 なにも変わっていない そうした状況の中で住まいの形態だけが変わりはじめている  民俗学的にも 社会学的にも「生老病死」にみられる「人が主の住まい」のあり方が変わってきている 現在 住居が本来もっていた「暮らし」に対する「対応力」は いま 住居以外の施設空間に委ねられつつある 「家族」という関係の中に組み入れられていた「夢や愛情」そして「団欒」といった私的な空間構成がすべて「手軽な安直さ」に魅せられて崩れつつある あるいはすでに崩れてしまっている 親も子も「拠り所としての住まい」で過ごす時間が少なくなり 「家庭」のもつ日常の生活過程が失われはじめている そして子どもたちの心は 社会的実質化が薄れ「隠居」化しはじめているのである 心と身体が分離し平板化されることで個性としての「私」が失われ画一化してしまっている状況下で住居に求められた顕示 所有 表現という欲望がもっていた公的要素と私的要素の同時性は 分断され そのあり場所を見失っている 
このことは精神と思考の可動域が狭くなってきていることの証左である 平安の昔から現代に到るまで この国には将来に対する政治も政策もなかったといえるけれど なにも変わらなかった訳ではない 元寇や下克上 そして黒船や原爆といった外事力により変革した既成事実をみればわかる ただその結果が 庶民 市民 生活者と称される国民にとって 益ある変わり方ではなかっただけである そのことは 地震や火災の被害のたびに規制と管理拘束が強化されてきた建物の世界においても同じである 
そこに住まう者の「内なる叫び」は忘れられ 棄てられているだけである 阪神淡路の大震災で被害を被った阪神地区 その中でも市役所が倒壊し 火災被害が拡がった神戸市は被害の中心自治体を標榜し「がんばれkobeフェニックス kobe 」を合い言葉に復興を目指している しかしそこでなされている都市行政は 住民の意志とは別のところで決定 選定されているのが実情である 震災被害を受けた公共施設を これ幸い! と復興事業に取り込み 周辺の道路を拡幅している それだけならば まだ我慢もできようが 整備されたということだけで土地評価額をかさ上げし 固定資産税率を上げようと試みている このことも「収入確保」の努力だと考えて 百歩譲って我慢しよう  しかしである 公設市場跡地を希望者があるとはいえ 6 坪から12坪の範囲で住宅地として分筆譲渡し その上に建つ違法老朽家屋を放置するその神経のどこに「住み良い町づくり」の思想 理念があるのか  そしてその地域を都市計画法の下 住居地域として指定し 密集を理由に防火 準防火地域にも指定し 法規制を強めている この狭小地でどのような住まいが建てれると言うのか ほんとうに住民の健康と文化的生活を念頭において都市行政を行っているというのならば なぜ再開発地区として指定し 日本国憲法で保障する生存権を踏まえた都市行政を行わないのか フェニックスなのはその「厚顔さ」である あの震災において 人・物・経済のすべての面で最も大きな被害率を被ったのは隣接の自治体である 断じて神戸市ではない 脆弱な都市構造に胡座をかき なにひとつ為しては来なかったツケを錦の御旗に「被害者として責任回避」することは赦されないことである と言わねばならないことが哀しい なぜにこのようなことになってしまっているのか 理由はただひとつ 官僚主導の行政と利権第一の政治屋の横行 そして責任を取らないですむ社会システムの肥大化にある 「寄らば大樹の陰」である ひとのいいおじいちゃん総理もいいだろう 冷めたピザと揶揄される総理もいいだろう そこにはまだ「味」がある だが「森の中のシンキロウ」と揶揄され How are youをWho are you と盟主国大統領に平気で話すような総理の国では 知事や市長が「同類であっても」致し方のないことなのかもしれない いまでは 官だけでなく民においても同様である 個人も集団も卑しき寄生虫と化している よい例が農協である日本の専業農家総数435000戸(1997年)に対して全国農協職員総数350000 人! これに国と自治体の農政関係職員数千人が 専業農家に生活基盤を置いているのである(ん?なバカなこと)




これらを糾す唯一の方法は 権利の主張と同時に 義務の完全遂行である

投稿者 matsumura : 2003年12月09日 16:54
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