2008年02月20日
建材の認定偽装問題
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ニチアスが建材の耐火性能試験で不正を行っていたと国土交通省が発表したのは昨年(2007年)の10月30日のことである。その後、東洋ゴムや日本軽金属、YKK-APや住友スリーエムなどの大手メーカーにまで偽装があることがわかった。2008年1月25日に発表された国土交通省の実態調査の結果では、45社98件に不正の疑いがあるとされた。
メーカー側は改修費用を負担すると言っているが、施工箇所がわかっているような物件なら改修も可能だろう。しかし、仕上っている部分を剥がしてやり替えるとなると大変な作業である。マンションなどで使用箇所がわかったところで、既に居住されている場合などは、工事などほぼ不可能であるように思う。 しかしもっと問題なのは、施工時の資料が既に無く、どのメーカーの製品が使われているのかわからない場合である。さらに、施工業者が既に無い場合だってある。これは耐震偽装の比ではない。構造計算書は必ずあるから、後からでもチェックすることは可能だが、製品納入伝票などはそんなに長い間残していない。それに、偽装された製品は特殊なものでなく、普通に使われるような汎用品がほとんどである。どこでも使われている可能性はあるのだ。 建築設計者は建材を指定する立場にある。ということは、こういう製品を選んでしまった時に責任が発生するのだろうか。このことは重大な問題だ。知らぬこととは申せ、将来起こるかも知れない被害の拡大に手を貸してしまうことになるからである。こういう場合、法律的には過失になる。では、製品を選んだ時点での責任はどうなるのか? その問題についてKEN-Platzで秋野卓生弁護士がこのように答えている。
「建て主責任となる恐れも」秋野卓生弁護士(KEN-Platz)
一方、設計者はどうか。我々は大臣認定の真偽など今まで疑ったこともないから、わざわざ偽装材料など指定することなど決してない。設計業務は委託契約であるから、知らずに選定した場合責任が無いとの見解でほっとした。安い設計監理料の上、さらに面倒に巻き込まれたらたまったものじゃないというのが正直なところだ。 しかし、監督官庁は建築確認申請業務を大混乱させた国土交通省である。メーカー側の大臣認定にかかるコストを使用者に負担させるようなスキームを考え出さないとも限らない。こんな不祥事が起きると、ますます余計な負担が増えて、良いデザインの建築が建てにくくなるような気がしてならない。 |
2007年10月21日
改正建築基準法は建築に死をもたらすか
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構造計算書偽造事件が、再び建築界を揺るがせている。姉歯事件によって審査が厳しくなった改正建築基準法が6月20日に施行されたのだが、それに滑り込むように今回のマンションの建築確認がなされたということだ。改正建築基準法では、従来の確認期間21日を大幅に超える日数がかかるとの心配から(実際その通りなのだが)、期間短縮のために偽装したというのがこの物件での真実であろう。
しかしマンション設計の業務においては、改正建築基準法の施行云々とは関係無く、常に時間に追われているのが実情ではあるまいか。マンション・ディベロッパーは土地を購入し、そこに分譲マンションの計画を行うのであるが、ほとんどの場合、彼らは商売の論理からしか事業を考えない。したがって、土地購入が流れたときに無駄金が発生しないように、土地取得前に設計事務所に仕事は発注せず、土地取得後は、できるだけ早く建築して営業経費を切り詰めようとする。それゆえ、設計・工事には厳しい工程が突き付けられる。にもかかわらず、それらを無難にこなしたとしても収入が増えるわけでもない。
だが、こんな高額なマンションが売れているのである。 この記事によると、最上階の5階の170平方メートルの物件は3億6800万円。そのうち土地代金が2億円以上を占めるらしい。建物の外観はタイル貼り、内装も舶来のキッチンや大理石を使っているといっても、建築には坪100万円もかかっていないはずである。ということは、この部屋の建築費は高くても6000万円。ディベロッパーはこの一戸で5000万円以上の粗利益をあげているはずだ。翻って、設計料はどうか。設計料は建築費における料率で決められるから、基準となるのは3億6800万円という販売価格ではなく、6000万円の方である。料率を3〜8%くらいと考えると、高くても480万円がこの一戸分の設計料である。人件費やら、事務所経費が同じようにかかっているにもかかわらず、設計者とディベロッパーの利益に10倍以上もの差があるのは正常なことなのだろうか。旧高松宮邸の隣とはいえ、あまりにも土地価格と建築費の比率が尋常ではないように思える。このような土地本位制の経済が、90年代のバブル崩壊後も連綿と続いており、いまだにそこにしか日本経済の浮揚を託せないのは、政府の政策的失敗ではなかろうか。 だが、それは長期的な問題である。緊急なのは、改正建築基準法により確認申請業務に多大な混乱が生じていることだ。そしてそれは、今後の日本経済にも暗雲をもたらそうとしている。
7・8月の住宅着工、3割減 耐震偽装で審査厳格化(asahi.com)
ましてや、先ほど述べたように、設計料は十分でないにもかかわらず、改正基準法による罰則は厳しくなり、設計者への責任は重くなるばかりである。こんな状況で、建築デザインの良し悪しなどあったものではない。さらに、今までは多少の変更は報告だけでよかったのであるが、今後は構造に少しでも関わる変更は、申請を再度出さねばならなくなった。工事途中でのクライアントの要望等での変更が困難になるため、最初から詳細に設計をしておかねばならない。ということは、今までに比べて設計期間が必要ということである。だがそのような事が、資本の論理で動くマンション・ディベロッパーなどのクライアントに通用するのか。建築設計者は非常に困難な状況に置かれてしまった。 ようやく政府も、今回の改正建築基準法が大きな問題を引き起こしていることを認めざるを得なくなったようだ。
改正建築基準法の施行に関する追加措置について(国土交通省 住宅局建築指導課)
誤解のないように言っておくが、僕はここで、設計業務の増加に伴う報酬についてとやかく言いたいわけではない。現在の法の運用では、クライアントと設計者が対話しながら建築を作ることを、著しく制限してしまうことを指摘しておきたいのである。最初からすべてを見通せる人間など存在しない。常に試行錯誤を繰り返しながら進んでゆくのが、僕達の人生なのだ。それを、最初から見通しておけと法は言う。不満があっても我慢せよとも言う。だがそんな状況では、良きデザインなど決して生まれるはずがない。建築物は建っても「建築」は創造できない。 今後日本の「建築」はどのようになるのだろう。デザインがどうの、美がどうのという前に、制度による表現の自由への介入が、一層増大してゆくに違いない。東浩紀が「環境管理型社会」と呼んだ社会の到来を、図らずも実感することになったわけだが、思想としての権力論については、また別の場で論じてみたいと思う。とにかく現在の我々の緊急課題は、制度による「建築の死」がおこらぬよう、戦略を考え実行することである。 |
2007年08月09日
京都の新景観条例 その後
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2月5日付のブログで予想したとおり、京都の高層マンションの価格が上昇している。産経新聞夕刊(8月8日)にも同様の記事が掲載されていたのだが、京都の景観には大きな問題なので全文を引用しておこう。
京都市、景観条例を逆手に のっぽマンション価格高騰(iza)
京都市で、眺望を売りにした「のっぽマンション」の価格が高騰している。建築物の高さなどを規制する新景観政策が9月にスタートするため、新たな高層物件が建てられなくなる地域が増えるからだ。現行基準で建築確認を「駆け込み取得」した新築マンションでは、上層階の価格が下層階の2倍にのぼり、「今だから提供できるプレミアム物件」を最大限にアピール。この影響で中古物件も値上がりしているという。新景観政策を逆手にとったビジネスに、市は「違反ではないが…」と困惑している。
それにしても、上層階の坪単価が下層階の2倍にもなっているとは驚きである。いくら高いところが好きなお馬鹿さんが多くとも、4〜5階程度の差では、京都の夜景に大差がないことがわからないだろうか。方角によっては、大文字の送り火が見えないことだってありえる。おそらく、カネ余りしている東京や海外の資本が、プレミアムと言う言葉に踊らされて買いあさっているのだろう。 だがこのようなことが続けば、地価の異常な高騰を招き、京都の町にも悪影響が出てくる。コミュニティーが破壊され、景観が破壊され、経済が破壊される。市は「価格設定はマーケットの問題で、市が指導できるわけではなく、コメントしようがない」などと無責任な態度のようだが、とんでもない。僕ですら、新景観条例が発表されたときに、このような事態を予想できたのであるから、もしも条例策定時に予想し、対応について考えていなかったとすれば、行政の大きな怠慢であると批判されても仕方がなかろう。京都市長の責任も重大である。 資本の論理で動いている輩に対して、文化への理解をいくら語っても仕方のないことは、バブルの時代に十分学んだはずである。資本には金で対抗するしかない。おそらく不動産の高騰に対して京都市が対抗できる唯一の政策は、固定資産税の購買価格での課税である。付加価値のインフレーションが都市景観政策のネックとなる訳であるから、土地・建物だけでなく、当然その部分にも課税すべきだ。高層住居を購入できるお金持ちには、きちんと税金を払ってもらいましょうよ、というお話である。 |
2007年08月08日
地域への建築家の役割
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「なぜ無責任な建築と都市をつくる社会が続くのか」という本を読んだ。著者の中崎隆司氏は生活環境プロデューサー・建築ジャーナリストということである。生活環境プロデューサーっていう仕事をよくは知らないが、プロダクトからまちづくりまでの調査・企画・設計をすることだそうだ。モノ・カネ・ヒトをつなげる情報産業といったところなのだろう。
著者は商品開発から町おこしまで様々な企画に携わってきた経験があるようで、語られる内容の一つ一つはとても具体的である。それゆえに、問題点の指摘にも説得力がある。例えば、昨今の狭小住宅ブームについてはこのように苦言を呈している。 狭小住宅にも限度があると思うが、現在の限度のひとつは九坪ということのようだ。九坪とは畳十八枚、約三十平米だ。超ミニ開発が行われているということなのだ。一般的にはミニ開発は建売業者が行うのだが、超ミニ開発には建築課と称している人たちが協力している。むしろメディアを通して狭小住宅の需要を煽っている。狭小住宅は住宅取得の機会を広げるという意見があるが、それは個の欲望だけを優先する考え方だ。狭小住宅は生活環境の悪化につながる密集市街地を新しくつくることになる。 (前掲著 <狭小住宅に建築家の未来はない> p25) 確かに、我々のような設計事務所に住宅を依頼するクライアントの中には、ハウスメーカーが建設できなうような敷地を購入した人も多い。これだけの資金で何とかしてくださいという話である。せめて土地購入前に相談してもらえれば、地域・土地・住宅を総合的に計画できるのにと思うのだが、一般の人はそのようには考えない。まず、環境のいい地域に住みたい!(芦屋、西宮・・・とか)でも、融資金額の総額は決まっているから、広い土地は買えない。さらにアプローチも悪い。でも、ここしかない。で、最後に、こんな生活がしたいから、これこれの部屋を作ってください。お願いします、ってことになる。建築費用は最後に残った分しかないのに、要望は天井知らずに高い。 こんな状況で、待ってましたとばかりに、雑誌に載っているようなイメージのワンルームタイプの住宅を提案すると、クライアントもコロッと納得。何しろ、コストカットのためにチープにならざるをえない空間を、メディアが格好いいといってくれているのだから。 建築家は個人と社会のバランスを考えられる人たちであり、個人の夢や希望を社会の夢や希望として表現できることができる人たちである。ところが、個人の夢や希望が社会の夢や希望につながっていかないことから、建築家本来の役割を演じることができないでいる。日本の社会に建築家に託す夢や希望がなくなっているのだ。だから、建築家の選び方も評価されたブランドを購買するのと同じようになっている。社会が夢や希望を持ち、その実現を託さないと、すぐれた建築家は育ってこないし、美しい国をつくることもできない。(前掲著 <夢を託されなくなった建築> p37) すべての建築家が慧眼の士であるとは言い切れないが、そうあるべきだと日々格闘していることは事実である。しかし個人の権利意識が増大している昨今では、建築において町並みや地域性といった公共精神を語ることは、時代遅れのように考えられているかも知れない。建築家の中にも、思考の表現だけが建築で最重要だと錯覚している者も多い気がする。
著者が問題としているのも、まさにその点である。地域を活性化するためのコンサルタントとしてアイデアを求められながら、なぜ物事がうまく進まないのか? では、デザインコーディネーターに頼ればよいかというとそうではない。よそ者頼みの安易な町おこしは、日本全国で同じような画一的なものになる危険がある。 地域ブランドづくりに大きな予算をかける必要はない。又デザインコーディネーターも必要ない。彼らが連れてくるデザイナーと組んでも成功することはない。地域で生活するデザイナーを育て、ゆるやかな人と人のつながりのなかから無理をしないでもできることをやればいいと思う。そのような機会と場所は無数にある。(前掲著 <銀座ショールームが東京都地方をむすぶ> p155) 大学で建築や都市環境を学んだ学生は、毎年1000人以上社会に出ている。にもかかわらず、建築設計業界はますます自閉的なデザイン論に向かっている。ジャーナリズムの責任も大きいが、日本の公教育が機能していないのが最大の問題である。こういう時代だからこそ、コミュニティー・アーキテクトといわれる、自らの地域に関わりながら住民を支援する建築家が、今後ますます必要になろう。デザインを社会的な文脈で活用するようなフィールドで、我々も働きたいと思っている。建築家と地域活性化についての関係について、中崎氏に同意する部分は多い。ただ、一箇所だけ矛盾を感じるところがあった。それは、注目されている建築家を使えと書いてあるところだ。上記の地域のデザイナーを育てよとの提言と、全く逆じゃなかろうか。 最新のデザインは建築雑誌の取材が期待でき、情報誌、女性誌の取材につながっていく。マスコミを活用することで集客力を高めることができる。(前掲著 <客数を増やすことが観光地の活性化の決め手になる> p175) マスコミを利用するのは大いに結構である。しかし、すでに有名になった建築家のネームヴァリューを使うというのは、公共団体が実績重視で組織事務所を選ぶのと根は同じである。公開コンペを行うなどして、地域に夢をもたらしてくれる案を住民が選べる方法が最善ではなかろうか。当然建築家も、斬新な提案ができる能力をつけなければならないのは言うまでもない。 |
2007年07月28日
都市について考える
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僕たちは「都市」という言葉をよく使うのだが、その概念を一言では説明できない。社会的・経済的・政治的・美学的・・・様々な観点からのアプローチが可能な「都市」を、あたかも十分に理解しているかのように語り合ってしまう。だが「都市」という同じ言葉を使いながら、互いに同一のイメージを抱いていることなど、ほとんどないと言ってもよいのではないだろうか。
とはいうものの、都市問題は人類全体の主要問題である。 菊竹清訓は1928年生れ。丹下健三が綜合プロデューサーとなった大阪万国博覧会では、エキスポタワーの設計を行う。黒川紀章、川添登らとメタボリズムを提唱し、建築や都市に対して理念的な活動を行ってきた建築家である。したがって、彼が 日本の第一印象は空港で決まる。すなわち空港に未来が欲しい。当然、東京は日本の活力を示すものであってほしいので、東京湾の空域をもっと生かした「新国際空港都市」という発想も検討に値しよう。(菊竹 「正論」) と語るとき、丹下健三の「東京計画1960その構造改革の提案」がだぶってくる。その計画について、丹下は下記のように説明している。
もはや東京は「都心」という求心的な構造の概念にとらわれていてはこれ以上の発展は望めない。そこで都心から東京湾にスパインを伸ばした場合にどういうことが起こるか提案してみたのである。これを「シビック・アクシス」と名付け、具体的な構想を練った。 確かに、共同体と共同体との間、共同体の周辺で行われる交易拠点としての「市」は都市の原型の一つである。人と物の流れが滞留する点が都市とも考えられるわけであり、空港は現代における「都市」とも言える。 つまり、飛行機を利用する人々のニーズが変化し、その行動はもはや空港から母都市に出かけるというより、例えば国際会議のために、世界中から集まってきた人々が空港内の会議室でいきなり会議に出席し、空港内のホテルで食事を済ませ、時差をとるためジョギングやプールで運動したりして緊張をほぐし、そのまま帰国するといったこともできるようになってきた。日本からの会議参加者も空港ターミナルに集まってくるわけで、こうなれば、『空港都市』のイメージに近づいてくる。(菊竹 同上) インターネットで瞬時に情報が世界を駆けめぐる時代となっても、対面コミュニケーションは信頼感の基本であると思う。したがって、政治的、経済的に重要な局面では、今後も人的交流は維持されるであろう。だからそういった機能を空港に付加することは、当然のことではある。しかしながら「空港都市」という概念は、あまりにインフラ重視の視点から語られているように感じる。空港がコンベンションセンター化すれば、当然そこで働く人たちのための住居や商業施設が建設されるだろう。しかし、だからといって、それが「都市」といえるのか。「都市」には経済活動だけではなく、政治的・文化的・宗教的な要素もなければならない。それら日常的事柄によって、人々はかろうじて、概念としての「都市」のリアリティーを掴まえることができる。しかしこういう感覚を、現在の都市論は論じきれていない。 アカデミズムの世界では、現存する都市の分類と保存という歴史-社会学的な立場か、人工的な環境の制御という政治-工学的な立場のどちらかしかないように感じる。しかし「都市」は、人間にとって常に現実的な問題であり、保守的な束縛からも権力的な強制からも自由であるべきだと僕は思う。精神-文化論的な視点を中心に、インフラや環境を統合してゆくこと。これらの方向にこそ、人間生活に即した「都市」のあり方を再構築するヒントがあるように思える。 |
2007年07月09日
磯崎新の思考
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最近は、とんとメディアに出てこない感がある磯崎新。
今回、スーザン・ソンタグの「良心の領界」という本の中の、「この時代に想うー共感と相克」というシンポジウムに参加している彼の 発言について考えてみた。もっとも、スーザン・ソンタグについて論じているのであり、磯崎新のことは、反面教師として自戒する意味で少し触れている程度である。 したがって、建築のこのブログには載せていない。興味のある方は、下記までアクセスを。 |
2007年02月05日
京都景観問題を考える
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大前研一が週刊ポスト(2/9号)の連載で、東京で行われている大規模開発は土地バブルを引き起こさないと述べている。その理由は、事務所の賃貸料が社員一人あたり10万円を超えるようなレベルになると、一部の外資系企業以外は持ちこたえられないと言うものである。現在の好況感の下では、値上がり期待で土地を手放す人が少なくなり、ある程度の地価上昇は起こる。だが、それは青天井ではない。まとまった土地を地上げするコストが上昇すれば、当然事務所の賃貸価格も上昇するため、どこかで企業の業績とのバランスが取れるというのである。
確かに理論的にはその通りだと思う。しかしバブルとは、実体経済の予想を大きく超えて、人間の欲望が拡大してゆくことにより起こる。カネ余りの法人・個人は、さらなる儲けのために投資先を探す。東京以外で好景気な地域があるのかは疑問ではあるが、こうした資金が流れてきている現在の京都の中心部は、まさにバブルなのでは無かろうか。京都に愛情を持たない人達が、「京都」というブランドが金になると考えて市街地を買いあさった結果、坪あたり1000万円近くの値が付いている場所もあるそうである。結局日本人は、過去のバブルの経験から何も学んでいない。というよりも、日本人の根底にある土地神話がいかほど強いのかが、今回もまた露わになったのである。 その京都では、2006年に市が新たな景観政策の展開を発表し、喧々囂々の論争が起きている。その内容は多岐に渡っているので、詳細はその資料を読んで欲しい。 その一つに、歴史的都心地区内の、いわゆる「田の字地区」の高さ制限を45mから31mに、職住共存地区の高さ制限を31mから15mに引き下げ、建築物の外壁デザインに対しても、色や形態の制限を設ける事が提案されている。実は、この内容が公表されると同時に、条例施行後に既存不適格になるマンション住民から多くの懸念が寄せられた。
「不適格な建築をすぐに建て替えなければいけないのか?」 京都市は、1991年に京都ホテル(現・京都ホテルオークラ)の建設に際して、市役所の向かいに総合設計制度によって高さ60mを認めた。確かに公開空地によって、歩行者の利便性は多少は高まったかも知れないが、市民が集う場所ができたとはとても言えない。僕自身は、明らかに都市景観行政の失敗だと思うのであるが、この点の検証についてはまた別途考察しよう。だが、その過去から一転して、高さの制限、デザイン規制という方向へ舵を切った市の景観行政の真意はどこにあるのだろう。果たして、確固たる哲学を持って京都の景観のことを考えているのだろうか。 先日、「歩いて暮らせるまちづくり推進会議」主催の、京都市の新たな景観行政に対する意見交換会に列席した。「田の字地区」における論争を中心に様々な意見が出されたのだが、住民からは程度の差こそあれ、市の唐突な景観規制案に否定的なものが多かった。情報が詳細に説明されていないために、住民が疑心暗鬼になっているのかも知れないが、中には自分の利益を守りたいという下心が透けてみる発言もあり、嫌な気分になった。たとえば、こうだ。 「京都の町衆は、お互いご近所のことを気遣い、町のことを気遣い、大文字の送り火の時などは家の灯りを消したものである。」 確かに、素晴らしい心根である。だが、その唇が乾かないうちにこんな事を発言する。「先日市役所でマンションの建て替えについて相談したが、高さを抑えた建て替えでは、現状と同じだけの面積は建てられないと言われた。お上の言うことを聞いて、我々はいつも損な役回りになる。」 確かに京都市の新しい条例が交付されれば、31mを超えるマンションは既存不適格となる。しかし、すぐに建て替えなさいというものではない。マンションの建て替えを住民が決めたときに、新しい基準で建てなさいというものである。たとえ、現時点で高さ制限による土地の資産価値の下落がおこったとしても、建て替えする時に資産価値が低いままとは限らない。逆に僕は、31m以上にあるマンションの居室の価格は上がると思う。今後京都の中心地では、10階以上に住むことができなくなるのであるから、期間が限られているとはいえ京都の眺望を楽しめるという価値はかなり高騰するはずである。(予想は外れるかも知れないが・・・)ともあれ、「他人のことを考える」といいながら「自分の利益のことしか考えていない」自己矛盾に、多くの住民は気づいていない。むしろ、「自分の利益を守りたい」とはっきり言って行政と議論する方が、お互いにとって実りある結果を導くはずだ。そうすることで現実的な合意点を見つけやすいからである。住民も行政も「京都のことを考えている」という点での違いが無ければ、どちらが「京都愛」が深いか、という精神論になってしまう。本当は、「自分の街を守るために、どこまで私権を制限することに合意するか」という問題なのである。行政は、市民の付託を受けて、その事務的手続きをしているに過ぎない。 京都は昔から「反東京(江戸)」の精神が強いところである。その京の町衆の末裔を自認するなら、自らの財産がどうのこうのとケチなことを言わないで、京都の将来のためにもっと厳しい制限を自らに課すくらいの意気込みを見せることはできないのだろうか。町衆の協力で設立された、日本で最初の近代小学校である番組小学校など、京都は新時代を切り開いてきたのである。決して不可能なことではないと思うのだが・・・。 果たして現在の京都が、日本人が抱いている京都らしさを保存しているか、はなはだ疑問である。その点については、じっくりと論じよう。しかしながら、京都に住む人々が、明確な京都の町の将来像を持っていれば、必ずや町はその想いに近づくはずである。意見交換会のゲストとして出席されていた立命館大学のリム・ボン先生は、「このような京都にしてしまったのは、行政じゃなくて京都市民なんですよ。」と言っておられたし、京都府立大学の宗田先生は、「行政は市民に敵対しているわけではなくて、もしも市民の意見が反映させられなければ、選挙によって意思表示ができる。それが民主主義なんだ。」と市民の責任を強調されていた。 こうした正論は、京都市民一人一人に届くだろうか。いや、もし届かなければ、いつまでたっても京都はまちづくりへの哲学を持つことができずに、現在の悲惨な姿を晒し続けることになる。そしてその結果、京都市民は責任を果たしていないと、世界中から批判されることになるのである。 |