2007年10月14日

「オレ様」化について考える


最近、でかい口をたたいたり、横柄な態度をとる若者がメディアをにぎわしている。「だから最近の若者は…」という気はさらさらない。メディアが若い有名人を標的にして、格差社会の不満のはけ口としているだけだからだ。しかし、自分は他人より優れていると、TPOをわきまえない振る舞いを考察しておくのも無駄では無かろう。

まずは、沢尻エリカ嬢。

エリカ様がご機嫌ナナメだとみんな爆笑?!(iza)

女優の沢尻エリカ(21)が29日、東京・有楽町の日劇2で行われた主演映画「クローズド・ノート」(行定勲監督)の初日舞台あいさつに参加。終始“ご機嫌ななめ”で、主演女優がほぼ話さないという異例の舞台あいさつとなった。

「特にないです」「別に…」と、会見ではご機嫌斜めだったらしいが、サンスポの記事では「会場は意外にも大爆笑だった」。しかし、その後の展開は、女王様キャラがなんだ、という非難の嵐。ついには、謝罪コメントと涙の会見。

沢尻エリカさんが謝罪 「諸悪の根源は私」「人間として未熟だった」(iza)

エリカ涙で謝罪「すべてぶち壊してしまった」(iza)

不遜な態度は、本人の錯覚のせいか、事務所の方針だったのかは知らないが、批判が高まり、さっさと謝罪してしまったのは、決して心からのものではないいだろう。CM出演料という巨大マネーのせい?と勘ぐられてもしかたあるまい。「諸悪の根源は全て私にあるもので、それを踏まえた上で、責任を取る考えです。」なんて、いつの時代の謝罪文なのか。書いた人の世代が透けて見える。

次に登場は、ボクシングの亀田一家。次男、亀田大毅の、世界チャンピオン内藤大助との試合は、ボクシングではなかった。

亀田、最後は自暴自棄…投げ技で減点3も(MSN産経)

首投げはするわ、持ち上げて投げ捨てるわ、プライド顔負けのファイト。よく、キックしなかったものだ。脚を鍛えていなかっただけかも知れないが。

それにしても、内藤をゴキブリ呼ばわりし、負けたら切腹するとまで大口をたたいたわりには、技術的にも精神的にもチャンピオンに及ばなかった。亀田大毅が最終ラウンドに反則減点覚悟で大暴れしたのは、そのままポイント取られて負けたら格好悪いからで、偽悪的なパフォーマンスをしただけ。ちょっと、やることが幼すぎる。セコンドについた父親も兄貴も同レベル。

目狙えの指示は「亀田家のボクシング用語」(iza)

またセコンドに入った兄で前世界ボクシング協会(WBA)ライトフライ級チャンピオンの興毅選手もコメント。テレビ放映で「肘で目をやれ」などの指示を大毅選手に出したことについて、「発言が誤解されているみたいやけど、あれは亀田家のボクシング用語で誤解されているようなもんやない」としたうえで、「あれはヒジを上げてしっかりガードして、目の位置を狙えという意味。亀田スタイルの基本」と解説した。

この一家は、自分たち独自の日本語も創り出しているらしい。ボクシングだけじゃなく、色々と素晴らしい才能を持っている一家である。

「お前が言うか!」 亀田興毅がエリカ様を批判(iza)

主演映画「クローズド・ノート」(行定勲監督)の初日舞台挨拶で、腕組み仏頂面の態度に批判が集中し、自身の公式ブログやテレビ番組などで謝罪した人気女優、沢尻エリカ(21)について、プロボクサーの亀田興毅(20)が7日、出演したTBSテレビ系「サンデー・ジャポン」で感想を聞かれ、「(不遜な態度は)やっていい場所とそうでない場所がある」と沢尻を批判した。

まあ、爆笑問題でなくても「お前が言うか!」と突っ込みたくなるが、自分が一番と思いこんでいるこんな「オレ様」気質の人たちは、一般社会にも増えているような気がする。

現在の競争社会、少しでも仕事をして金を儲けている「オレ様」は、ネットカフェ難民に比べりゃずっと優れている。こんな些細な優越感が、弱者への差別を膨らませる風潮となって、日本社会に広がっているのではないか。しかし、それを自己主張としてもてはやすメディアのせいで、一部芸能人のわがままぶりが個性などと言われてしまう。だが、個性は他人を見下して獲得するものじゃない。他人が認めてくれてこそ「あなたの素晴らしさ」が個性といわれるのである。


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2007年07月01日

個人の倫理観こそ


互いの顔を見てのコミュニケーションならば、相手がどんな性格の人なのか、真実を話しているのかといったことは、言外にわかるものである。しかし、会社の看板を背負ったとたん、応対に出てくる者は人間味を失い、能面のような表情で定型句を繰り返すのはなぜだろう。そこには、弱みを見せればメディアに吊し上げられるという恐怖と、自分個人の過ちでもないことを他人から批判されたくないという気持ちが垣間見える。

企業の買収や合併などが当たり前のようになり、終身雇用制度は日本人の精神文化の中ではほぼ終焉したと言ってよいだろう。今や、「会社あっての私」じゃなくて「私のための会社」なのである。では、こうした「割り切り」が広がっていく中、企業の信頼性といったものはいかに保証されるのだろうか?

「シエスパ」、周辺住民にガス検査約束も実施せず(iza)

食の安全、国内でも火の手 ミートホープ捜索(iza)

不祥事を起こす企業に、規模の大小や業種などは関係がない。だが、共通した一つの根がある。「利益のためなら消費者などどうなっても良い」という思想である。

シエスパの親会社のユニマットは、ガスの発生を知っていながら何ら対策を講じなかった。安全対策にかかる費用をケチったのである。それが結果的には大きな代償を支払うことになった。
一方ミートホープ社は、牛肉の中に、豚や鴨の肉のほか饅頭の皮まで混ぜていた。肉の味の違いなどわかるはずがないと、消費者をなめていた。

どちらのケースもあまりにお粗末だが、事件や事故が起きるまで、誰も何とかしようと思わなかったのだろうか。ミートホープ社の工場長が、社長は雲の上の人だから反論できなかったと弁解していたが、「あんた歳いくつやね!」と言いたい。曲がりなりにも工場長として人の上に立つ人間なら、部下に偽装をさせて恥ずかしくは無かったのか。

今、日本に蔓延っているのは「他人の不正はどんな小さな事でも許さないが、自分が生きてゆくための不正には多少目をつぶってもらって当然」という自分勝手なものだ。ネットカフェ難民ならいざ知らず、そこそこの教養もあり収入もある人たちの倫理観が崩壊していては、この国の未来はどうなるのだろう。
政治家や財界の皆さんへ。子供は大人の言葉より、そんな生き方をじっと見ているということをお忘れなく・・・!最後は個々人の倫理観が社会を下支えするのである。


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2006年08月06日

弛緩する日本


最近日本で起こる事件は、ますます猟奇的で悲惨なものになりつつある。特に、小さな子供が被害者になった事件は、多くの人々の心に深い悲しみを刻む。だが、そのような事件の犯罪者にたいして強い憎しみを感じる一方で、彼らが逮捕されても、どうにもすっきりした気持ちになれないのはなぜだろう。おそらくその原因の一つは、犯罪が全く偶発的なものと思えないことにある。

ここ数ヶ月の事件だけでもこんな具合だ。

これら事件は、すべてが殺人・傷害事件ではない。犯人が既に捕まっている事件もあるし、日々次から次へと事件が起こる日本では、どんどん人々の記憶から薄れていくであろう。それゆえ、ここで少しばかりの抵抗をして、僕らの社会を反省しておきたいと思うのである。

秋田の児童殺害事件と大阪の女性監禁傷害事件は、どちらも警察捜査の怠慢である。僕は平和的な人間だと自認しているが、<警察・検察><裁判官><弁護士>の司法関係3者は絶対信用してはいけないということを、「決して他人の保証人になるな」という言葉と共に家訓としている。秋田の事件では、住民の間ではかなり前から、容疑者の証言がおかしいと話題になっており、自分の娘を連れて橋の上にいた姿も目撃されていたのである。警察がもっと地道な捜査をしていれば、隣家の男児がさらに殺害されることは防げたはずだ。

初動甘く情報生かさず…お粗末、秋田県警(iza)

「聞き込み捜査のあり方、検証を」と警察庁長官(iza)

大阪の事件でも、行方不明になっていた女性の友人が、お見合いパーティーで知り合った男のことを警察に話している。親も何度も警察に行って、単なる家出人ではなく事件としての捜査を願い出ていた。だが、大阪府警は馬耳東風。(まあ、大阪に住んでいる人なら誰でも知っているが、もともと大阪府警にきちんとした捜査や公正さを求めても無駄なことなんだけどね。「大阪府警警部補が盗撮、阪急茨木市駅で現行犯逮捕」こんな事件がしょっちゅう起こっているんだ)結局、この犯人は、同様の監禁事件を今までに6件も犯していた。かつて同居していた女性が亡くなったときに、きちんとした捜査をしておれば、この女性も被害者にならずにすんだのである。

村本容疑者さらに2人監禁か 10年前と昨年(iza)

次に京都の事件。ここは税金を払っている身として言わせてもらいたい。実に、京都市職員の不祥事では、今年4月から8人もの逮捕者を出している。そして、その大部分が環境局がらみである。

逮捕者続出の京都市 市長「優先雇用が原因の一つ」同和行政で異例の発言(産経関西)

市長がこのように同和問題・優先雇用にまで発言したのは異例のことらしいが、だいたい京都市民の多くは、行政の弱腰と逆差別に対してずっと不満を持っているのだ。そして、その事がかえって差別意識を助長していることに、市のトップは気がつかないのだろうか。「長いものには巻かれろ」「臭いものに蓋」といった事なかれ主義が、行き着くところまで行き着いた感じだ。ここできちんとした対応をとらないと、人権教育自体が重大な危機に陥ると言うことを、すべての団体が認識して欲しい。

最後になったが、プールで無くなった女児は決して単なる事故死なのか。プールの問題では、有田一彦氏が1997年に「あぶないプール」という本を出しておられる。それから10年の年月がたっているのに、毎年のようにプールでの事故は起きている。人間の行うことには必ずミスがあるという仮定で、安全対策が考えられているのに、今回のように業者を監督したり、メンテナンスをしたりする人達が、勝手に安全基準を変えていたら、一体誰が「安全」を保証してくれるのか?有田氏が下記ブログ書かれているように、プールの構造も含めて、メディアにはきちんとした責任問題を追求してもらいたいと思う。

埼玉プール事故:問題なのは注意義務だけではない

このようにこれら事件を考えてみるに、警察なり行政なりが問題の端緒できちんとした対応をしていれば、少なくともここまで大きな事件になることを防げたのではないだろうか?僕たちすべてに言えることだが、ルーティーンワークに埋没すると、危機探知能力が鈍ってくる。さらに、個人の責任が明確でないような状況では、誰かがやってくれるだろうという無責任へと容易に流れていってしまう。こうした精神のゆるみが、今の日本には多いのではないだろうか。

日本人は、自己の高い倫理観でもって仕事をする国民だったはずである。だが、「ホリエモン」や「村上ファンド」を無反省に取り上げる風潮が、金儲け至上主義を助長し、こうした倫理観を失わせつつある。しかしながら、こうした弛緩していゆく日本にたいして、批判する態度を失ってはいけない。


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2005年04月30日

「朝日」的 責任論


昨日は祝日だったので、昼間のTV朝日のワイドショーを見た。今はなんと言ってもJR福知山線の 事故のことが重要ニュースなのでその報道が中心である。事故直後は乗車客の生死情報が 報道の中心だったが、昨日あたりから激突されたマンションの問題も話題となってきた。

そこで、おそらく朝日新聞かTV朝日の記者なのだろうか、コメンテーターとしてとんでもないことを 言う人物がいた。「このような場所にマンションを建てた建築会社に問題はなかったのか?」 暗に、建設会社からも賠償を取れと言わんばかりの暴論だ。JR西日本に責任があることは 明々白々であり、防御ネットなど必要な安全措置は、当然鉄道会社が考えるべきものだろう。 それを、建設会社に責任が無かったか?だと!とにかく、誰かを悪者にしたくて仕方のない 朝日的な言動だが、まともな頭の持ち主とは思えない。

まず、建設会社にどんな責任があるのか?彼らは請負契約で建設するだけであり、違法建築を進んで 行っているわけではないのだ。百歩譲って、そのような場所にマンション建築を計画した者が 問題というのなら、それはマンションディベロッパーであり建設会社ではない。 しかし危険の予見がどれほどできるのだろう。そんなことを言い出したら、飛行機の飛んでいる 下には建物を建てられないし、道路脇に家を建てたら責任に問われるのか。 そんな程度の常識すら持ち合わせていない人間が、影響力のあるTVに出して欲しくない。 昼間に見てる奥様方のレベルがそんな程度とタカをくくっているのだろうか?

過去の日本の罪の中国や韓国への御注進は熱心にするのに、自らの報道の誤りをなかなか 認めない朝日新聞。誰でも良いから理由を見つけて、責任ばかりをあげつらう朝日的な責任論に どれほどの正しさがあるのか、僕にはとても疑問である。


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2005年02月04日

音羽の滝 事件?


京都、東山の清水寺は「音羽山 清水寺」といい、音羽山より湧き出る音羽の滝は寺名の由来となっている。そして、地元では清水さんと呼ばれている境内の中にあって、音羽の滝周辺は僕の子供の頃の遊び場であった。当時(1960年代)から滝の湧水は清めの水として、参詣者は柄杓で飲んでいたのだが、先日の産経新聞の記事では、そこで問題が起きているようなのだ。

そう言えば、滝の横のテントで何かを売っていたのは知っていたのだが、それが水を飲むためのお椀であるとは今まで気づかなかった。当然、滝の水は無料で、柄杓も置いてあるのだから、それを買って飲まないといけない訳ではない。ただ、その様な場所に店が出ていることで、必要も無いのに買ってしまう人が結構いるらしい。わざと紛らわしくしているのは、寺の金儲け主義ではないのか?という批判の記事である。

寺側の言い分としては、柄杓に口を付けて飲む衛生面を気にする参拝者の便宜をはかってのことらしいのだが、現在、柄杓は飲んだ後に赤外線殺菌をする箱にいちいち入れるようにもなっている。僕が子供の頃には、神社の手水舎(てみずや)のように杓が並んでいるだけだった。確かに神社での作法では、直接杓に口を付けることはなく、そちらの方が清潔だと言えば言えなくもないが、衛生的かどうかは水の成分に因るのではないだろうか。一応他人が飲んだ柄杓を、滝の水で洗ってから自分も飲むのであるから、柄杓をなめ回すような性癖の人の後でなければ大して気にする問題ではない。そもそも、古来より「黄金水」「延命水」とよばれ、 ”清め”の水として水垢離をするような聖水なのだ。たとえ病の人が飲んだ後に飲むことになっても、心身を清めてくれると信じることこそが信心というものだろう。

新聞では、宗教評論家が「境内での販売を許可した寺側は見識がない。紙コップで十分ではないか」などとコメントを寄せていたが、紙コップのどこに聖なる雰囲気があるのか? こんな事を言う宗教評論家にコメントを求める産経新聞も、物事を良く考えてから記事にして欲しい。
結局、衛生的とか不潔とか言う人達は参詣者ではなく観光客なのだ。だから、清水寺が宗教的な理を貫くのであれば、「聖なる水の霊験を信じないような人達には、音羽の滝の水を飲んで頂かなくて結構!」と言うべきである。そうすれば、滝の横で聖地の景観をぶちこわしているテントもなくなるし、やたらと長い行列も少しは短くなるだろう。ともかく、近いうちに散歩がてら音羽の滝に寄ってこようとは思うが、実は清水さんには、観光客が知らないもっと静かで霊験あらたかな場所がある。でも、決して教えません。悪しからず。


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2004年11月02日

20041102


今日、50年ぶりのプロ野球参入新規球団が「楽天ゴールデンイーグルス」に決定した。なぜ「ライブドア」が落選し「楽天」が認められたのか現時点では詳しくはわからないが、本音の所は、「ライブドア」堀江氏より「楽天」三木谷氏の方が組みやすいと、旧グループの面々が判断したからだろう。

プロ野球組織はナベツネ主導のドラフト逆指名制により裏金が一層飛び交うようになった。このような腐った畑に三木谷氏が如何に新しい種を蒔いてゆくのか、お手並み拝見と言ったところだ。スタイルからしてレジスタンスの堀江氏と違って、興銀を見捨てて起業した三木谷氏は既存エスタブリッシュメントと手を組んでいるのではないかと疑われる経歴だけに、一層の改革をオーナー会議の場で主導していって欲しい。

実は昨日、11月1日に大阪市の第3セクターである「大阪シティードーム」が大阪地裁に特別調停を申し立て事実上破綻した。そういえばこのドームは、日建設計と竹中工務店の案をガラガラポンしてできた、バブル期特有の政治的に不透明な経緯だったように思う。結局巨額の税金を投入して、儲けたのは建設に関わった企業だけだったのか。赤字を埋めるために使用料も高く設定され、それが近鉄バッファローズの消え去る原因の一つだった。

さて明日の11月3日、その大阪ドームでゴールデン無しの「イーグルス」が来日公演を行う。まさに70年代ウエストコーストサウンドの代表的グループなのだが、名曲「ホテル・カリフォルニア」は政治の季節の終焉をメランコリックに歌いあげている。歌詞の中に出てくる1969年にはウッドストックコンサートが開かれ、ローリング・ストーンズを脱退したブライアン・ジョーンズが水死し、1970年にはジミ・ヘンドリックスが変死する。1968年パリ五月革命から1969年東大安田講堂占拠、日本においても若者の抵抗は無惨な形で敗れ去った。泥沼化したベトナム戦争の暗い影が世界を覆うが、そうした傷を見ないように生きるミーイズムの明るい消費生活がもてはやされるようになる。

世の中を牛耳っている古い人達は、大衆の政治への無関心を画策し情報を操作する。今にして思えば、イーグルスが活躍した70年代はそう言う時代であった。僕たちは10代であまりに無垢であったが、思春期特有の感性で世相の暗い影も感じていたと思う。そして2004年の現在、僕は70年代を繰り返すことになるのではないかと真剣に心配している。破壊による経済的停滞よりも、若者の心に落とす「人間への絶望」という暗い影が、今後の社会に多くの問題を引き起こすのではないかと、心底心配なのである。


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2004年08月31日

五輪躍進はゆとり教育のおかげ?


今回のアテネオリンピックでの日本選手の活躍は、80年以来推進されてきた「ゆとり教育」ゆえに練習に当てる時間が増え、さらに個性を伸張・開花させる目的で、それぞれの個性を伸ばす作業が積極的に賞揚された結果である。

こう言う主旨の文が、8月30日付の産経新聞夕刊(関西版)に武田徹なるジャーナリストのエッセイとして掲載された。まあ、彼の本文の主題はDNAで将来を決める社会に向かうのは人間の自由を奪うのじゃないか、と言うことなのだが、話の枕にするにしても、よくもまあこんな頓珍漢な思考ができるものだ。武田徹なる人物を知るわけではないが、おそらくスポーツなどをしたことがない頭でっかちな人間なのだろう。

そもそも週休2日になったのは2年前からであり、それまでは授業の中身をどんどん薄めていっただけである。だから、小中学生が復習に使う時間が必要無くなったとしても、たかだか1時間くらいのものである。学校のクラブ活動レベルなら多少ともうまくなるかもしれないが、そんな努力で日本一になれると考えているのなら、オリンピック選手をまったく馬鹿にしている。多少とも足が速いとかいうのは個性かもしれないが、個性を伸ばしたくらいで日本一になれるのか。むしろ彼らはスポーツエリートなのである。人生の全てをかけてトレーニングをし、あるいは父親や母親から投げ飛ばされ(柔道選手は大抵そうだ)「ゆとり」なんてまず無い。

今回のオリンピックでこれだけの結果を残せたのは、まさに成果主義を科学的に追求したからである。国際マッチや遠征したりすることも、単に外国人に慣れるなどと言う情緒的なことではなくて情報戦なのだ。現在のスポーツの状況をわかりもしないで、人間が自ら望むものになれるというような安易なヒューマニズムをまき散らす人間がなんと多いのだろう。ゆとりがあっても努力しない者は、ただのろくでなしにしかならないと言うことを、小学生から教えるべきである。


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2004年07月20日

小林よしのり裁判の読み方


まずはこの事件がどんな内容だったのか。産経新聞社による記事をまず読んでもらおう。

 漫画家小林よしのりさんの「新ゴーマニズム宣言」で名誉を傷つけられたとして、関西大講師の上杉聡さんが、小林さんと発行元の小学館を相手に約720万円の損害賠償などを求めた訴訟の上告審判決で、最高裁第1小法廷(横尾和子裁判長)は15日、「他人の行為を著作権侵害と批判する法的見解の表明は、事実の摘示(要点をかいつまんで示すこと)ではなく、論評に当たる」との初判断を示した。

 その上で、小林さんが上杉さんを「ドロボー」などとした表現は、論評の範囲を逸脱していないとして、小林さんらに250万円の賠償などを命じた2審判決を破棄し、上杉さんの請求を退けた。上杉さんの敗訴が確定した。

簡単に言えばこうなる。小林よしのりのマンガを引用して彼を批判した上杉聡にたいして、小林が著作権違反だとして上杉を<ドロボー>呼ばわりし司法に訴えた。頭に来た上杉は、<ドロボー>呼ばわりは名誉毀損だとして逆に訴訟を起こした。まあ、悪口の言い合いがエスカレートして裁判沙汰になったという事件である。

実は、上杉聡の引用に関しては、一部原作を書き換えた部分のみ著作権違反が認められたが、それ以外は論評の範囲という司法判断が決している。今回「・・・判決で結論が示される事項だとしても、法的見解自体が事実の摘示とは言えない」と判決文に記されたことは、法律的に自らの思いとは違った結果となったにしても、主張そのものは論評だ、ということを認めたものである。
実は二審の高等裁判所では、小林よしのりは<ドロボー>でもない人間に対して誤った事実を述べたとされ、名誉毀損の判決が出ていた。まったくもって、世の中を知らないか法律馬鹿の裁判官の判決である。窃盗や強盗をした者だけが<ドロボー>と呼ばれるわけではないことは、日本語の言論文化では常識的なことなのに、つまらぬ論理しか信じられないと馬鹿げた判決を出してしまうようだ。その点、最高裁判所の判断は二審と比べれば謙虚に見える。論評という言論の自由を認めているようにも見える。

だが、最高裁判事はまともなのか?それを信じていいのか?
小林よしのりに対してこの判決を出した最高裁第一小法廷の横尾和子裁判長は、私の訴えられた速度違反裁判の上告趣意書に対して、「憲法違反の問題では無いから」と裁判もせずに棄却した裁判官の一人である。詳細は別の機会に譲るが、全ての車が最高速度をオーバーして走行している状況で、警察が法的根拠もなく取締速度を決めることが罪刑法定主義に反しているのは明らかではないのか?これを憲法違反といわずして何というのだろう。結局、最高裁も国家安泰になるようなシステムの一つでしかないと理解しておかないと、司法制度に過大な信頼を寄せる過ちを犯すことになる。


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2004年01月01日

時の誕生


時間は不可逆的に流れると一般的には考えられているが、その根拠は1年といった周期的な生活の時間とおなじくらいの妥当性しかない。いやむしろ、物理的な時間は地球の周期性の中から生まれてきたと考えていい。
正月が時間の生まれ出る特別な日と考えることは、正月のイベントがあるが故ではない。我々が溜め込んだ精神の澱のようなものを吐き出すための契機が、正月行事を作り出してきたのでは無かろうか。そうならば、現在行われている年末年始のバカ騒ぎからうまく身を隠す方策も見えてくる。
一年という周期性があったが故に、我々は社会や人間の真実を深く反省する時間を持てた。少なからぬ悔恨と新たなる未来への高まりを表現する行為が元旦行事の本質だと分かれば、大晦日にやたらと血を流す格闘技を延々と流し続ける日本の横並びの放送局は、さながら帝政末期のローマに思える。人々の目を不満から逸らすために施される食糧と熱狂。マスコミとは為政者の批判であるべきなのに、結果的に権力を補完してしまう。知らぬ間に我々の生活は、経済システムに包囲された息苦しいものになっているのだが、それすらも感じられないようなソフトな権力の支配が広がっているのだ。
感じないのは、感じさせるものがないのか?それとも、感じる能力が失われたからなのか?2004年、その答えを探すべく権力論を再構築する必要がありそうだ。

投稿者 Rollin' : 00:59 | コメント (0)