2008年05月28日

三響会


今日、京都南座での三響会の公演(5月28日)に行ってきた。

三響会とは、父、能楽師葛野流大鼓方宗家預かり亀井忠雄、母、歌舞伎長唄囃子方田中流田中佐太郎のもとに生まれ育った、亀井広忠、田中傳左衛門、田中傳次郎の三人の兄弟が、1997年に結成した。
囃子を通じて、能と歌舞伎それぞれの伝統を踏まえつつ、新しい可能性を追求している。

(三響会HPより)

二日間の公演であったが、今年は昼夜二回となった。能と歌舞伎のコラボレーション。まさに、この三兄弟にしかできないことと注目されているからだろう。夜の部の公演では、狂言の茂山家が「五人三番三」を披露した。残念ながら、僕は観ることはできなかったのだが。

謡と三味線とが掛け合うなど、能でも歌舞伎でも体験することはできない。日本の芸能も、オペラに負けず劣らずの深い表現力がある。日本人ならではの情念の技芸に、全く感動の一日であった。


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2007年08月10日

宝塚歌劇とジャニーズ


産経新聞夕刊(関西版8月9日)に浜野保樹 東京大学大学院教授が書いていた記事に引っかかった。氏によれば、宝塚歌劇とジャニーズには共通点があるとのこと。いったい何が一緒なんだろうかと読み進めてみたが、どうやら次のようなことらしい。

ジャニーズは小林の言う国民劇を継承していると言えよう。

そしてこの二つの集団が国民的存在になり得たのも、一部の目利きや、ファン、特権階級のものにしないように努めたということだろう。

浜野氏はここで、小林一三の宝塚歌劇への思いなどについて詳しく述ているのだが、ジャニー喜多川については、ロス生まれでアメリカが故郷だという程度のことしか触れられていない。にもかかわらず、どうしてジャニーズが小林の継承者だなどという結論が導かれるのだろう。<国民劇→大衆劇→大衆人気→人気グループ>という連想ゲームなのか。

確かに、小林は国民劇を目指したわけだが、それは男女共演の演劇のことである。そのため、1945年に「男子部」が創設されたのであるが、結局は女子生徒やファンからの反発で1954年に解散している。つまり「国民劇」創造に、小林は失敗しているのである。まあ、無理を承知で言えば、ジャニーズは男性ばかりのタレント集団を継承したとも言えるが・・・
しかし、宝塚歌劇とジャニーズは以て非なるものである。

宝塚歌劇団という利益追求企業の中にあっても、タカラジェンヌはあくまで生徒である。トップスターがどれだけ人気を博そうが、歌劇の中での話である。基本的にスターだけメディアに売り出して、儲けようなどはしない。それゆえ「ベルサイユのばら」という大当たりが出るまで、宝塚歌劇団は阪急ブレーブスとならんで阪急のお荷物だったのだ。

それに反して、ジャニーズ事務所のメディア戦略はどうだ。確かに、最初はグループで売り出すものの、売れてくればバラ売り。それも、ドラマ、歌、バラエティー、司会・・・何でもござれである。まあ、人気タレントがいるのだから、それは許そう。見過ごせないのは、人気(=視聴率がとれること)をいいことに、メディアに圧力をかけていることである。他の事務所の男性タレントの出演などに、露骨に圧力をかけているらしい。(これは僕が直接聞いた話だから確かだと思う)

メディア論がご専門なら、こういうメディア-ポリティクスについて、はっきりものを言わなければいけないのじゃないですか。浜野先生。国が立ち上げた知的財産戦略本部のコンテンツ専門調査会の調査委員をされているらしいが、表層的な提案に終わらないか心配だ。日本ブランドをコンテンツだけで見ていたら、大失敗するように思う。フランスなどは、あらゆるメディアでの国家的なイメージ戦略で日本に攻め込んでいるのである。その結果、どれくらいの円がフランス企業を潤わせているか、おわかりでしょう。

とすれば、それに対抗できるのは宝塚歌劇しかない。パリからレビューをもたらした白井鐵造の魂を呼び起こし、宝塚歌劇団のパリでの定期公演を行うことが、「日本の文化ここにあり」と全世界に発信することになるのじゃなかろうか。

ちょっと飛躍してしまった。

しかし、叶わぬ夢かも知れないが、夢の向こうにしか未来がないことも事実である。


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2007年07月17日

さすが!仁左衛門


先日、道頓堀の松竹座に行ってきた。
今回の七月大歌舞伎の見所は、片岡仁左衛門、秀太郎、愛之助、孝太郎ら関西歌舞伎陣に、市川海老蔵がどんなふうに絡んでいくのかにあった。だがなんと、海老蔵が観劇前日の午前公演後に風呂場で転倒、足に15針を縫う大怪我をしてしまった。なんという不運。その結果「女殺油地獄」の与兵衛役は仁左衛門が務めることとなった。

海老蔵ファンはがっかりだったんじゃないだろうか。連休だったし、遠方からの観客も少なくなかったと思う。僕も、9月の舞台での役作りで、海老蔵が20キロも減量していると聞いていたのでとても興味があった。特に<にらみ>の成田屋が、関西弁で放蕩息子を演じられるのか?

そんな期待が一気に失われてしまったのだ。したがって、海老蔵の代役となる役者にはすごいプレッシャーがあるはずである。もちろん他の共演者も、余計に注目されることとなり、一層気の抜けない公演となったのではないだろうか。

それだけが理由ではないと思うが、この日の演目はどれも素晴らしかった。「鳥辺山心中」では、秀太郎が飄々とした遊び人の侍を好演し、愛之助・孝太郎は悲しい道行きで泣かせた。また「身替座禅」では、仁左衛門と歌六の掛け合いに、心の底から笑うことができた。 しかしなんと言っても瞠目に値したのは、「女殺油地獄」の仁左衛門である。

今回のこの芝居は、仁左衛門監修となっているとおり、彼は出演せずに演出家のような立場であった。海老蔵や孝太郎らを教えていたわけだ。それゆえ代役にはうってつけではあるが、午後の公演では主役を二つ続けることになり、60歳をこえた仁左衛門には体力的にとてもきついはずである。

ところが、終盤の修羅場での油まみれの大立ち回りは本当に凄い。どうしようもない放蕩息子が、親の思いに感謝しながらも人殺しへと変わってゆく、人の心の不条理。それを、瞳の輝きの変化で演じ分ける。金に追い詰められた狂気の中に、心の弱さが明滅する。僕はぐいぐいと演技に引きずり込まれていった。

僕らはTVのせいで、生の舞台を観ることが少なくなっている。だが、古来から洋の東西を問わず、歌舞伎のような演劇がこそが、人の悲喜劇を表現してきたのである。役者が神掛かる舞台こそが、洋の東西を問わず人間の心の支えであったことを、仁左衛門に教えられた気がする。


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2004年01月25日

彼らを覚えてますか?


まずは、吉村萬壱、大道珠貴、吉田修一。この辺りで分かったらそこそこ通。長嶋有、玄侑宗久、堀江敏幸、青来有一。ここまできたら、一人ぐらいは知っているかも。松浦寿輝、町田康、藤野千夜、玄月、そして平野啓一郎。僕が読んだ本は、この平野啓一郎まで約5年遡る。そう、前回から10回前までの芥川賞作家の名前である。この名前を現在どれくらいの人が覚えているのだろう?そして彼らの小説を読んでいるのだろう?
ここに今年は、金原ひとみと綿矢りさが加わった。だが、マスコミの今回の騒ぐ様はどうだ。確かに若者が本を読まなくなっている現代日本において、20歳の女性作家が芥川賞に選ばれるというのは快挙なのかもしれない。これを契機に、若い人が小説を読んでくれると、出版社にとっては売り上げがのびることだし、それと関係の深いマスコミが持ち上げてセンセーショナルに記事にするのもいたしかたないのかもしれない。
しかし、過去をふり返る限り、注目される作品を書き続けなければ、人の心には残らない。また、書き続けたとしても、気まぐれな読者が付いてきてくれるとは限らない。小説を読んでいる人は多そうなのだが、歴史小説をビジネスのネタに読んでいるおじさん族などは、小説の芸術性などおそらく何にも感じることの出来ない人種だと思う。一体、純文学(こんなジャンルを未だに信じているのもどうかと思うが)を理解している読者がどれくらいいるのだろう。
現代のように刺激の変化のスピードが早いことに価値を見出している時代に、こうして出てきた若い作家を育てていこうなどという余地があるのだろうか?編集者が作家と共に苦悩しながら作品を世に送り出すより、人目の引く新人に宣伝費をかけて売り出した方がずっと簡単に金を生む。その流れに逆らって、何人の作家が名作を書き上げることが出来るのか?それは、作家の才能とは別に、社会の価値観、ひいては我々の精神性までもが審判にさらされると云うことを、僕たちはきちんと認識しておかねばならないだろう。

投稿者 Rollin' : 02:11 | コメント (0)

2003年11月04日

仮面の魅力


先日、日米 コミュニティ・エクスチェンジ・プロジェクトで来日されている、仮面アーティストのドンヴィエヴさんの制作ワークショップを見学する機会を得た。
画用紙という2次元の材料を使って、3次元的な仮面を作り上げていく過程は、空間デザインを考える上でも示唆に富んだものであった。しかし、今回僕が考えさせられたことは、仮面を被るという行為が持つ意味である。仮面を被ると言うことは、自らを偽るというように一般的には考えられやすい。本当の自分をさらけ出してこそ、お互いのコミュニケーションが円滑に図れるとも言われる。だが、本当にそうなのだろうか?
人間本来の姿など、決して無垢で誠実なものではない。食べるために動物を殺し、生きるためなら同じ人間に対してすら傷つけることをいとわない。そんな人間の出自に嫌悪し乗り越えるために、我々は文化というものを作り出したのではないか。それは、ある意味では精神の仮面である。
ワークショップで、すばらしい仮面がひとりひとりの心の中から生み出される過程を見ていると、我々に今必要とされているのは、仮面を脱ぎすてて自由を主張することではないと感じた。より良い仮面を作り、お互いがコミュニケートする方法を模索しつつ演技する。そのような試行錯誤に依ってこそ、より良い人間社会の実現が可能となると思う。
詳しくは 堀江ジャンクション HPを。ドンヴィエヴさんの展覧会が、南堀江のアトリエ・ユニオンで11/9まで開催される。

投稿者 Rollin' : 19:55 | コメント (0)