2009年06月03日
「日本の難点」 宮台真司
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宮台真司とは同世代であるし、ブルセラなど目の付け所がユニークな学者として注目していたのだが、数年前に見た「朝生」などのテレビでの様子が偽悪的に思えて、ここのところ著作からも遠ざかっていた。だが最近、新聞の書評で「日本の難点」がとても売れているとの記事があって、久しぶりに彼の本を手にした。
今回この本を読み終わって感じたのは、「宮台ってすごくまともじゃないか」ということだ。しかしながら、最近の宮台氏の言説は「左から右」へシフトしたと批判されているらしい。おそらく、親米保守、反米革新といった対立軸が既に無効になっているにもかかわらず、そのカテゴリー分けに安住したい知識人の無理解ゆえだろう。彼が、若者のフラットなコミュニケーションを研究し、時に擁護してきたのも、為政者の無知を暴くための方便であったということが分かっていないのである。 では、この本で彼が言いたかったことは何か? <システム>の全域化によって<生活世界>が空洞化すれば、個人は全くの剝き出しで<システム>に晒されるようになります。「善意&自発性」優位のコミュニケーション領域から「役割&マニュアル」優位のコミュニケーション領域へと、すっかり押し出されてしまうことになります。(P34) 社会学者のニクラス・ルーマンは「おかしなことは何も起こりません」という期待を「慣れ親しみ(安心)」と呼び、「いろいろあっても大丈夫です」という期待を「信頼」と呼びます。「安心」は脆弱ですが「信頼」は強靱です。対面コミュニケーションを「信頼」ベースにするべきです。(p61) 流動性と多様性が高い社会で、個人が他者を承認することを通じて承認されるために不可欠で、かつ社会が民主的な形で存続するための不可欠な要因が、パーソンズシステム的には感情や感覚の幅を広げ、かつ社会システム的には「感染し感染される」関係性を拡げる、「感情教育」だと思います。(P100) あとがきにもあるように、この本にはゼミの教科書的な側面があり、社会学者やその理論へのリファレンスが多岐に及んでいる。そのため、宮台氏自身の考えが若干見えにくくなっているのだが、上の部分がこの書の勘所ではないかと僕は思っている。流動性と多様性が高まることをポストモダン化というのであれば、それはエントロピーの法則のように非可逆的である。それを、ウルリッヒ・ベック、スコット・ラッシュ、アンソニー・ギデンズらは「再帰的近代化」と定義した。宮台氏も、再三念を押しているが、その点を見誤ると単なる「道徳万歳」「コミュニティー万歳」となってしまう。だから、こうしたポストモダンの現状を受け入れた上で、外から規範という網を被せない方法があるのかと問わねばならないのだ。 しかし、社会の存在理由が無条件に信じられなくなっている(宮台的に言えば「底が抜けている」)状態において、単純に個人主義から共同体主義(コミュニタリアン)へと向かうこともできない。では、個人も社会も信じることができない僕たちは、一体何に正統性を担保してもらうべきなのか? だから、そうしたどうなるか分からない水物の努力よりも、選挙における大衆動員や、議決における多数派工作によって、拘束力を持つ奪人称的な集合的決定をもたらす方が、ウェーバーがいう計算可能性の存在という意味で合理的です。「カリスマ性」よりも「皆の意見であること」に正しさが宿るからではありません。(p166) 信じていた真理が全て相対化された後でも、「手続きの透明性」は正統性を担保すると認められているのが現代社会だとすれば、民主的という手法を根拠とせざるをえない。それゆえ、全ての決定は政治化する。こうした考えは、民主政治が衆愚政治に陥る危険があるゆえに哲人政治を目指したプラトンの挫折にも通じる。人間における「善」は現象としてしか現れないから、「善」のイデアを体現している哲人は「人でありかつ人でない」という矛盾の存在である。奪人称的な哲人は存在しえない。ゆえに、社会の成員が納得する手続きが問題となるのだ。 だが<生活世界>が<システム>に置き換わってしまった現代社会の「正統性の危機」は、簡単に乗り越えられるのか。宮台氏は、結局は個々人の意識に還元されると結論づけ、そのための方策を論じる。
そうした企てを踏まえて彼(パーソンズ)は、社会成員に価値コミットメントを後天的に埋め込む社会環境の全体の設計を企図するニューディーラーを擁護しました。「社会成員が利他性を自然感情だと見なすように刷り込むには、どんな社会を設計すればよいか」ということです。これは僕の立場でもあります。 論理が非論理性によって支えられていることは、論理実証主義を持ち出すまでもなく、人間の直観である。だから、その直観を高い倫理性にまで引き上げていくことができるシステムがあれば、とても素晴らしい社会である。しかし、悲しいかな、過去のどの時代・地域においても、そんなユートピアは存在しない。その事を、十分、宮台氏も分かっている。だから、このような本を書いて、その絶望に対して戦うこと自体に意義を見つけようとしているのではないか。チェ・ゲバラについて彼が書いた部分は、自身が「スゴイ奴」になってやろうとする意気込みの現れであり、僕はそこに大きな魅力を感じた。 ゲバラは違います。革命の大義を陶酔的に語るよりも、自信が和えて「不合理性への跳躍」を体現するのです。喘息持ちなのに体力の限界を超えて行軍した挙げ句、行く先々で医師として無償で民衆の病気を治します。結果、合理性とは別の何かー感染的模倣(ミメーシス)ーによって周囲が包摂されるのです。(p279) |
投稿者 Rollin' : 2009年06月03日 23:51 | トラックバック