2007年07月09日
「良心の領界」 スーザン・ソンタグ
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この本は、日本で行われた「この時代に想うー共感と相克」というシンポジウムを中心に、スーザン・ソンタグが行ったいくつかの講演を集めたものである。
シンポジウムは2002年4月28日に行われており、彼女以外のパネリストは、浅田彰・磯崎新・姜尚中・木幡和枝・田中康夫である。彼女が今まで発表した作品が、反-戦争、反-米政府という強い意志で貫かれていることを考えると、日本側のプチ左翼が彼女を担ぎだしたのだろうと、僕はしばらくこの本を読まないままでいた。2001年9月11日の同時多発テロから半年しか経っていない時期では、米政府の「テロリストは絶対に許さない!」との主張と、「米政府のグローバリズムという名の覇権主義こそが、イスラム国家の反発をまねいているのだ!」という反米主義者の主張とが、まだまだ感情的に対立していた。このような社会状況の中で、「反米」以上の有益な議論が行われるのか?それも、バイアスのかかった日本のパネリストが取り囲む中で・・・ しかし、僕の考えは全く外れていた。スーザン・ソンタグの知性は、パネリストのそれを遥かに凌駕していたといって良い。それは、戦火のサラエヴォにまで乗り込む行動力と言葉に対する妥協のない態度によって生み出されたものに違いない。安全地帯に陣取り、戦争反対を叫んでいる者たちとは、明らかに人間に対する見方が違うのだ。 彼女はこう語る。
ある種のナイーヴなというか理想主義的な観点と、政治的現実主義やドイツ語で言う「レアルポリティーク」とを二項対立的に考えることは、私にとって居心地が良くありません。私達は歴史の中に生きており、諸国民やもろもろの共同社会のあいだには現実の対立が存在します。しかも世界は正義の原理に準拠して構成されているわけではありません。たいていの場合は、かなり悪いこと、とんでもなくひどいこと、そのあいだの選択をどうするかが問題になっているのがせいぜいではないでほうか。そこで、とんでもなくひどいことよりはましだけれども、かなり悪い方を選ばざるをえない。それでも不正義、そうとう重大な不正義は存在するし、正当な権利要求がすべて満たされるわけではない。(略) 「[20世紀末に冷戦が終わり]21世紀になって明るい展望が開けるかと思ったら、恐ろしく野蛮なところまで逆戻りしてしまったような感じがします」と浅田さんは言いましたが、「明るい未来が開ける」と私たちが思ったことなど、浅田さん自身、本当に信じておられるのでしょうか。いわんや、実際にそんなことを思った人がいたでしょうか。人々は明るい展望が開かれると思っている、と考えた人が本当にいたでしょうか。 修辞的な表現で情緒的に論を進めることを認めないスーザン・ソンタグの強い意志が、この発言に感じることができる。言葉の厳密な適用こそが、異なる文化の相互理解の第一歩であると考えているのではないだろうか。一方、建築家の磯崎新は、象徴性も担いえないデザインの悪いビルが、なぜテロの対象になったのか?と疑問を出しながら、自ら下記のように結論づけている。長くなるが引用しておこう。 20世紀の近代建築の過程にはひとつの理論がありました。それは、もっとも、合理的で、効率が良く、効果的な投資ができるビルがいちばんいいのだという、美学とは無縁の経済的なロジックでした。これを優等生的につきつめていくとあの世界貿易センタービルのかたちができるわけです。完全に均質でニュートラルなものがいちばん効率がいいという、近代のデザイナー・建築家のほぼ全員が疑いもなく了承してきたロジックが作り上げたものが攻撃の対象になり、破壊され否定されたのだと僕は理解します。(中略)政治的・宗教的問題や、経済的抑圧という面もあるけれども、その背後にこういうものを生産し表象している文化そのものに対する攻撃や疑いが潜んでいるのだ、というふうに読んでもいいのではないかと思います。 さすがに浅田彰は、磯崎のこの話に簡単に同意するほど馬鹿ではないが、この理屈は、左翼の「反グローバリズム」と全く重なる。さらに、建築デザインにその隠喩を見つけるという、プチ左翼知識人のロジックを忠実に踏襲している。このような発言にいちいち反論するのも馬鹿らしいが、スーザン・ソンタグと言葉に対しての感性がどれくらい違うのかを知っておくのもよかろう。まず、近代建築が合理性や効率のみですべてデザインされたという理論が、まずは暴論だ。様式主義建築の意味空間からの開放や、新しい技術の象徴としての近代性について、意図的かもしれないが語られていない。さらに、2本のモダニズム建築にジェット機が突っ込んだことが、効率性が支配する資本主義への挑戦であると断じているが、おそらくアル・カーイダはそんな抽象的なことなど考えてはいないだろう。アメリカ政府、アメリカ人を、最も恐怖に陥れるために、その象徴として「世界貿易センター」を狙ったのである。(事象を深読みして、イデオロギーに従わせるという磯崎の方法は、浅田彰がもっとも嫌っている態度なのではないのか。) スーザン・ソンタグは、こうした党派性から最も遠いところにある。自らが見たもの、体験したものに対して、真摯に言葉を選びながら理論を構築する。しかし、人間社会が矛盾に満ちたものゆえ、思索には困難な道を歩まねばならない。 私がつねに行ったり来たりしているということ、孤独と連帯のあいだを往復しているという点では、一貫しています。そのどちらにも、絶対的な必要性を認めるからにほかなりません。いつも逆説や矛盾を強調してばかりいて申し訳ないのですが、生きるということは、そういうことなのではないでしょうか。孤独と連帯という二通りの理想的な状況は相克している、という事実を受け入れるべきなのではないでしょうか。(中略)「孤独は連帯を制限する。連帯は孤独を堕落させる」と言いました。ときによって、一方の必要のほうが他方よりも強くなり、その入れ替わりが繰り返されるわけです。人間としての生き方を十分にするには、孤独も連帯も長い持続の中でとらえるべきで、私的人間関係でも公的行動でも、それを可能にする方法を見つけなければなりません。 2004年12月28日。急性骨髄性白血病にてニューヨークで死去。享年71歳。シンポジウムが行われたのは、その2年半前である。イラク問題が泥沼化し、北朝鮮の核が脅威となっている現在の世界情勢を、彼女ならどう語るのだろうか。矛盾に満ちた人間社会を、そして人間の精神の暗部をきちんと捉えることのできる批評家が、今こそ必要とされるのに・・・。すぐれた知性を失い、本当に残念である。 |
投稿者 Rollin' : 2007年07月09日 18:10 | トラックバック